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○2009第1回研究会記録

日 時;6月6日(土)、午後2時~7時迄

場 所;東京大学本郷キャンパス・経済学研究科棟・10階・第4会議室

報告者と論題(敬称略);

①兼田麗子(早稲田大学)「大原孫三郎の社会文化貢献~そして大原總一郎へ」

②中島智人氏(産業能率大)「ブレア労働党政権以降の英国における

”ボランタリー・セクター”政策の変遷」

参加者;石原、高田、金澤、中野、辻、大杉、兼田、中島、山本通、山本卓、岡村。

( 2009年3月4日岡村作成)

日 時;2009年2月28日(土)午後1時~6時半
記録メモ(岡村作成);
兼田報告の概要;『大原孫三郎の社会文化貢献』成文堂,2009.および『福祉実践にかけた先駆者たち~留岡幸助と大原孫三郎』藤原書店,2003.に書かれた概要を報告された。
大原孫三郎と子息の總一郎の公共思想についての報告であった。両者ともに、民間人として社会改良にリーダーシップを発揮した。1880年倉敷の大地主の家に生まれた孫三郎は社会問題に関心を持った。彼の生涯において、決定的な転機となったのは、1899年の石井十次との出会いであった。1906年倉紡倉敷の社長に就任以降、社会文化貢献を行った。わが国では、異色の企業家であった。1943年62歳で死去。
  石井十次は岡山孤児院の創設者であり、彼の献身的な活動に心を打たれた孫三郎は寄付を惜しまず続けた。石井の影響で、孫三郎はさまざまな社会文化貢献活動を行った。

例えば、倉紡における社内改革;飯場制度の廃止、分散式寄宿舎の改善、教育・習い事の場づくりなど。三つの科学研究所の創設;大原奨農会(1910年)、大原社会問題研究所(1919年)、倉敷労働科学研究所(1921年)。倉敷日曜講演会、倉敷中央病院、大原美術館など。
  こうした社会文化貢献を行った孫三郎の思想の特徴として、①儒教の影響を受けた社会観、②近代的・科学的・合理的な精神、③民間人としての社会改良への使命感、④「上」からではなく「下」からの目線といったものがあり、倉敷という地域にこだわって活動を展開したという特徴が見られる。
その規模・範囲の両面において莫大であり、形を変えて今日まで存続している。
他方、總一郎(1909-1968)も同じく、倉敷紡績の社長として活躍したが、父とは違って消費者行政に関心を持ち、民間と国家の様々な経済的組織において活躍をした。
例えば、関西経済同友会代表幹事、経団連理事、国民生活向上対策審議会委員・会長大阪博準備委員、21世紀の日本特別委員会委員(座長)など。

文化関係では、大原美術館理事長のほか、日本民藝館理事長、日本ユネスコ国内委員会など。教育・研究関係では、大原農業研究所・日本フェビアン協会・労働科学研究所の理事、日本フェビアン研究所の設立など。医療・福祉関係では、倉敷中央病院・石井記念愛染園の理事長、石井記念友愛社会長などのポストについて活動した。總一郎の特徴は、儒教的概念から考察すると次のように集約できる。つまり、生活者重視の視点、環境・地域の重視、正義・公正・人権という価値観の重視、進取・独立・独創の精神に基づく実行力であり、精神と物質の調和を追及した、正真正銘の国際人であった。 以上の報告に対し、活発な議論が展開された。大原登場の背景には、岡山の社会経済的背景、地理的な特殊性があるのではないか、すなわち、川が多く都市に出やすい。都市化が早く進行し、地域の共同体が崩壊し、早くから核家族化が進行したので、農村的な相互扶助の網から漏れた人が多かったのではないか、という意見が出された。

そのことが逆に、慈善活動を引き起こすことにつながったと考えられるが、もっぱら寄付に拠ったので、救貧院は長続きしなかった。他方、兼田説は、倉敷で大原が登場し、早くから慈善活動を展開したのは、日本では特殊な、例外的なことであったし、石井十次との出会いにしても例外的であったと解釈するので、渋沢英一や武藤三治といった人々の活動とつながらない。兼田説では、人道主義(大原)と温情主義(武藤)の相違を強調するが、英米の企業家の公益活動をみれば、両者には共通点もあると考えられる。この点は、今後の検討課題であろう。 中島報告の概要;まずは、ブレア労働党政権以前の、政府とボランタリー・セクターの関係について、特に、サッチャー保守党政権下では、公共サービスの経済性・効率性が追求されることになり、政府資金は、より効率的な使用のために「競争的」に運用された。ボランタリー・セクターは政府の公共サービスを補完するものとして位置づけられたが、同時に、市場での競争関係を持ち込むことにより、政府よりも顧客のニーズの把握や開拓において優位にあり、特に、それらを政府よりも安いコストで業務を遂行できるものと想定された。官僚が立案した計画の下で、市場競争を使いながらボランタリー・セクターを活用する方式である。 ブレア労働党政権の「第三の道」路線における、ボランタリー・セクターは、コミュニティとともに、国家から奨励・保護されて、公共サービス(排除から包摂へ)の執行を引き受ける主体として位置づけられた。その際、政府とボランタリー・セクターは「コンパクト」を交わし、実効ある活動にすべく導くことになる。

やがて2005年あたりから、公共サービスにおけるパートナーシップとしての「サード・セクター」という名称に変わってきた。その役割は、公共サービスの提供にとどまらず、その受益者や地域社会の声の代弁者として、さらには政治的なキャンペーン、健全な地域社会の構築の役割、さらには「社会的企業の振興」(不遇な人々の雇用や訓練機会の提供、それを通しての貧困地域の再生)も期待されている。  課題としては、副首相府による公共サービスの供給主体としてのボランタリー・セクターで、地方自治の担い手。他方、内務省アクティブ・コミュニティ局によるコミュニティの刷新で、社会的排除や格差の是正を目指す。この二つのアジェンダが対立することにある。これは、ボランタリー・セクター内部での、NCVOとACEVOの路線対立を生み出している。政府は、その立場からボランタリー・セクターを利用しようとしているが、後者にとっては本来の活動とずれる点がある。政府路線を支持しているのは、労働党支持のチャリティ組織であり、伝統的な組織は政府のためにチャリティがあるのではない、という姿勢であり、政府の政策に距離を置いているのが実態である。 以上の報告に対し、多様な質問が出された。特に、労働党政権が公共サービスの提供、地方行政の執行、社会的企業の振興を期待する現在のボランタリー・セクターは、伝統的なチャリティ組織とは別概念といってよい、とのこと。したがって、チャリティとボランタリー・セクターをどう繋げて議論できるか、できないか、大きな課題である。

また、英国における社会的な企業に関しては、三つの異なる言説が見られるということで、一つは、寄付や補助金ではなく、契約や財・サービスの提供による事業収入を期待するもの、つまり「市場取引」による非営利組織の企業化を重視するものである。二つ目は、社会的企業を社会的な「包摂」の課題に応えるもの。地域住民の参加を通して地域における社会的・経済的な「包摂」の実現を目指すものと考える。三つ目は、協同組合の伝統に根ざし、社会的企業は民主的な企業運営を具現化するものと考える。したがって、この三つの言説のどの立場を採るかで、社会的企業に期待するものが異なる。社会的企業をめぐっても、ブレア政権は第一類型と第二類型の間で揺れているようだ。 以上