帰り際、棟を一歩出ると、激しい咳にみまわれた。外の空気は、50センチ置きに匂いが変わり、とても耐えられない刺激に感じた。
 「敏感である」ということ、「純粋さを求めて進まざるを得なくなる」こととは、こういうことかと思った。
 気管支炎は順調に悪化し、2週間かけて、いつもよりすこし速いペースで直った。
 
 日々の中で、「どうして上に行かないのか」というthの思い(というか、おそらくそれは、私の中の思いをthのものとして投影したものでもあるだろうが)は、通奏低音のように始終響いた。
 そして思い浮かんだことは、私は、そんなにすぐには完全には成りたくないのかもしれない。ということだった。
 もし私が、自分の能力を使う、というところに直線的に進んで行きたいのなら、―それが使命なら―、そもそも私は今世で女性という性を選んで産まれてこなかったのではなかろうか。

 現段階の不完全な森川として、迷いながら進み、まだ経験するべきことがある。
 自分が単独で力を使うよりも、周囲の皆が力を使えるように。一緒に進んでいけるようにと、願うこと。
 そういうことのために、女性として生まれた。
 そう考えると、いろいろと納得がいく気がした。
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 ところで私は、フォーカシングを一旦引き受けておきながらthを置いてきたことを気にしていた。たぶんthがそれを言い出したのは、半分は、ほんとに体験したかったのかもしれないが、もう半分以上は、私にリスナーをさせることによって、私あるいは私らの関係の何かが開けると考えたのだろう。thはもう忘れているぐらいのことかもしれないが、いちおう、日を替えて引き受けると明言したからには、こちらはいつでも応じられるようにしておくのが道義だ。
 
 フォーカシングのリスニングスタイルには、バリエーションが多い。
 催眠では一旦覚醒水準が降りてしまえば、おそらく、セラピストのリードの方向性、内容をどうするかということに、仕事の力点がくるのではないかと想像する。フォーカシングは催眠よりも浅めの覚醒水準に留まることもあって、リスナーは、リードをするのか「しないのか」、するならどの程度リードするのかということ自体を、フォーカサー(体験者)に合わせて選ぶ必要がある。口調、声のトーン、声をかける間合い、そしてもちろん教示の内容も、フォーカサーの好みになるべく合わせ続けていく。
 後からリスナー(セラピスト)の役を取る場合、通常ならかなり気が楽だ。あまり深く考えずに、ただ、「してもらったようにして返す」ことによって、そのリスニングはうまくいく。人は、自分に施行して効くようなことを、他人に対してもやっているものだからだ。
 あれだけセッションを受ければ、私も「ある程度までは」、thのスタイルでできる。
 問題は、どの程度までなら無理なくやれるかだ。
 
 そう、もし、リスニングするならば‥
 道筋は、複数を例示して、thに選んでもらおう。一つの道をリスナーが決めて誘導していくことは、フォーカシングの立場上できない。
 道筋を選んでもらったあとは、いつもより少し、決然と行こう。
 声は、はっきりと深く、届くようにと意識して話そう。
 ‥

 と、頭の中でシュミレーションしていく私の中に、ある想定が浮かんだ。
 もし、もしもの話として、(そういう事は、まず無いだろうけど)、私がそうしたように、thがそれ以上の歩みを閉ざすようなそぶりを見せたら、リスナーとして私はどう動くのだろうか。thのように、断固として働きかけるだろうか。
 例えば、もし、ちょっとでもthが、(前世では状況的にある程度そうせざるを得なかったように)今世でも孤高を保とうとしていくようであれば‥。

 ‥‥。

 私は絶対許さない。
 私はthの背中に腕を回すだろう。そして、(thが、腕を払いのけさえしなければ)深く抱き込んで抱きしめるだろう。いろいろな仲間が周りにいるではないか。あなたがその力で呼んだではないか。その気になりさえすれば、あなたはあらゆる力を受け取って、どんな困難も越えられるではないか。と、語り続けるだろう。

 (‥‥この私がハグをするってか?)
 ひとりであわてふためく私の中で、何かが明確になっていった。

 「対象を選ばない愛」とはこのことか
 
 th一人の内側には、この世で特定の容姿性格を分担し生き抜いているその人とともに、前世で女だったth、男だったthの思い、それぞれの時代にthとかかわったすべての人たち、thを支えthが支えたすべての自然とのつながりがある。

 時空を超えた森羅万象。

 誰かを愛するということは、宇宙全体を腕に抱くこと。
 
 そして、どの人も、そういう大きな場なのだから、誰を愛することも、何を愛することも、すべて「対象を選ばない愛」に他ならない。


 きっとthも、いろいろなクライエントの肩を抱くとき、そう感じているのではないかな。と思った。
 
 
**************
 ということで、催眠療法体験記でした。長いこと読んでくださった方、ありがとうございます。

 まったく違う人生の感じを知ることができたのは、たしかに「自己概念が広がる」体験でした。私にとってはその他に、過去生や他者の念の影響を意識化しながら生きている人とはどういうものかを、thという人に出会うことによって、感じさせていただいたところが大きかったように思います。

 ちなみに今は(これを書いているのは、最後の催眠から約2ヶ月後の、2005年末ですが)、なんでもないことをありがたいと感じるようになり、力に満ちてきたように思います。力が削がれたときには、それがすぐに分かるようになりましたし、比較的すぐに、力の満ちた状態に戻れるようになった気がします。
 そのようにして、日常生活を愛するようになりましたが、他にもしたいこと、何かすべきことがあるような‥。それが何であるかは、まだ見つかりません。環境問題かなあ‥何だろう‥。そのうち見つかっていくのでしょうか‥。

 thの先生、ありがとうございました。


 さて、今回お世話になった先生は、「ヒーリングスペース フォレスト」陣野先生です。
 フォレストのHPは、http://www.geocities.jp/forestmind8/forestmein.html です。
 この体験記を掲載するにあたり、ご意見を伺うためご連絡したところ、陣野先生は電話口で苦笑いしておられました。「虎?鷹?‥。俺はこんなに優しいのに‥」。
 私の同僚と私との間でかなり印象が異なったように、クライエント側の体験というのは、かなり転移(クライエント独自の人間関係のありかた)に左右されているものです。しかも本体験記では、スピリチュアリティーについて書きたいという動機のため、催眠のセッション外の先生との会話やそれについての私の主観的印象を、かなり書かせていただいています。このように詳しい体験記を公表することは、セラピストのイメージや、セッションのプロセスについて、他の方に先入観を抱かせてしまうという危険性もあります。にもかかわらず、クライエントとしての私の意志を尊重し、互いに実名入りという異例の掲載をご許可いただいたことは、陣野先生の度量によると感じています。深く感謝いたします。



☆ 催眠療法体験記(3) 序

☆ 催眠療法体験記(3) 主訴

☆ 催眠療法体験記(3) #1

☆ 催眠療法体験記(3) #2−1

☆ 催眠療法体験記(3) #2−2

☆ 催眠療法体験記(3) その後


☆ 催眠療法体験記(3) #3

☆ 催眠療法体験記(3) #4−1

☆ 催眠療法体験記(3) #4−2

☆ 催眠療法体験記(3) 結





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