「それ、自分でできたら便利そうやね。」
「そう?いったいどうしたと。」遠隔は怪しいとか、届くわけないやろとか、届きよう感じが全然せんとか、言っていた夫である。
「なんか、それ、されようけんかどうか分からんけど、風邪引かんくなったし。」
たしかに、しょっちゅう風邪を引いていた人が、この1年半、風邪らしい風邪はない。
気づけば、自分自身も、1〜3年に一度はかかっていた気管支炎に、かかっていない。
1日5分のレイキが本当に効いているのかどうか全く定かではないが…。

「それに、(たまに不調のときに)直接されると、相当効くやんか。自分で、地下鉄の中でとか、できたらいいやろ。」
「そりゃあ自分でできたら便利やが。習いに行ったら?」

と、紹介しようとすると、首をふる。
「でもねえー。自分は理系やけんね。そんな、目に見えんものを習いに行っとる立場じゃないよね。…やっぱやめとくわ。」
向こうの部屋に行ってしまった。

また何ヶ月かして、言ってくる。
「それ、自分でできたら便利そうやね。」
「やけん、南区の先生に習いに行ったらいい、って言いよろうが。天神からバスに乗ったらすぐやが。」
「いやー、さすがにそれはまずい。まずかろうねえ。そんなところに行って、ばれると、大変なことになるが。」

理系の領域の研究室というのは、スピリチュアリティのような、立証困難、もっと言えば魔術的に見えるものに対する不容認が、すさまじいらしい。
机の上に置かれた、天然石のブレスレッド(人からもらったもの)を指差しながら彼は言う。

「例えばこんなん、しとったらさ、○○先生(教授)や、□□□先生(前教授)が、ドッドッドッドッて走ってくるが。
『森川クン!! 気は確かか!!!』
僕やって、学生がこんなん(ブレスレッド)しとったら、『お前、大丈夫か!!』って言わないかんよ。」

「けど、前に言いよったやろ。理系の学生は、一流の研究室ならみんな習うって。
『実験中は、機械に腹を向けろ。腹を向けとかんと、出る結果も出らんとぞ!』」

「そうたい、実験装置、ひいては、実験したい物にやね、腹を向けるったい。僕らんところの実験は半日かかるけん、大変やけどね。間に他のことしとったとしても、とにかく腹はね、向けとかんといかんよ。首だけ向けるんじゃなくて、ちゃんと、腹をね。」
「……それは、腹から、気かなんか、出とう、っちゅうことやろ?」
「いや、そういうわけではなかろうけど…」
「じゃ、こういう結果が出て欲しいっていう念があって、念のとおりに結果が左右されとるって、ことやろ? いい結果を出しよる先生というのは、念の強い先生ということやろ?」
「いや…、そうやけど…そうとも言うけど……、…そうやないような…。やっぱ、その仮説がよくて、真理やけん、確信を持って、それを念と言えば、念も出るっちゅうか…」

ほら、やっぱり。

ある程度は、念なのではなかろうか。

でも、まあ、どこでもそうなのかもしれないが、
どうしても、その領域その領域で、守らなければならない筋というものがあるらしい。
「やけんさ、習いには行けんとよ。」
そして、ついに言い出した。
「やるなら、こっそりやらないかん。あんたが習ってきて教えてくれんかね。
奥さんに無理やりやらされた、っていえば、まだ、ばれた時でも、聞こえがいいけん。」

………。
そりゃ、たいていのことは、習いに行く私だが、
習いに行けばモノになる、というわけではない。
人間の能力には差があるものだ。

レイキは、3rd Degreeまでは、誰でも習得できる。
そして、Teacher's Degreeは、一定の要件を備えた人に伝授されることになっている。
一定の要件というのは、一般的に、素質などは関係なく、
レイキを愛しているかとか、正しく人にレイキを伝えることができるか、等が、
条件として挙げられることが多いようだ。
「レイキは、誰でもできるようになり、使えば使うほどヒーリング力が高まるのだから、素質は関係ない」というのが理由だ。

とはいえ、力の差があることは否めない。
力の差の一つは、エネルギー自体の強さだ。
アスクレピオスの先生に私が教わって以降、2回、レイキの練習会が開催された。
遠隔の練習会(←遠隔の練習会は、月2回も開催してくださっている。)とは違い、
直接、相手の身体に触ってレイキをする形の練習会の機会は、なかなか貴重なものであり、公民館的なところに10名ぐらいが集まって行う。
身体をほぐし、
ペアになって生徒同士が、レイキをし合ったあと、
最後には、一人の人に2分間、残る全員が手をあててレイキを送る。

こういうのをレイキマラソンと言うが、全員ですると、否応無く分かってしまう。
やっぱり、先生の手が一番、温かくて効きそう、なのだ。

もう一つの、力の差は、感知の能力だ。
例えば先生のように、肩の「ピンポイント」のコリとか、卵巣のような小さな臓器の「ちょっとした違和感」を、手の感覚によって感知する。そしてその程度や意味を「ま、病気と言うほどのことはないと思いますけどね」と説明する。
こうした能力は、いくら、
「レイキはやればやるほど分かるようになる」と言われても、
自分には、10年経ってもここまでできるようになる気がしない。
むろん、練習会に行ったとき、生徒さんの中にも、それらしいことが出来る人はいた。
自分自身も、多少は、具合の悪い人を触ると手に痛みを感じたり、なんとなくここに手当てをしたほうが良いと、思うことはあるが、その感覚は漠然としたものであり、とても、自信を持てるものではない。
私は、ボディーワークというのが、もともと得意ではないのだ。
フォーカシングの中でボディーワークのセッションをするときは、極力他の人に任せているぐらいだ。

レイキが日本で生まれて、日本の中だけで教えられていた頃は、
相手の悪い箇所が手の感触で分かることを「ヒビキ」、
治療したほうがよい箇所にひとりでに手が動いていくことを「病腺感知」と言って、
これらが出来ないと
今で言う2nd Degreeに進めなかったという。
欧米に渡って西洋化したレイキの中では、そのような、
長期の修行が必要な概念は取り去られたが、
実際人に教える場合は、
このような感知能力がなければ、説得力を持てないだろうし、
ヒーリーが、生活の中で何を気を付ければよいか、指針を授けてやれないだろう。

感知能力と言えば、やはり元々高い人はいる、と思う。


ある日、フォーカシングの研究会でのこと…。

つづく



Reikiへの道(1)

Reikiへの道(2)

Reikiへの道(3)

Reikiへの道(4)

Reikiへの道(5)

Reikiへの道(6)
Reikiへの道(4)



フォーカシング
気まぐれ日記
学生ラボ
自己紹介・研究
LINK
TOP
授業・試験
何でも体験記