そう、どういうわけか受付でそれが把握されていなかったのだが、A君はここに来ていない。 今、目を開けて見渡しても彼の姿は無い。 彼は昨日、アンさんの個人セッションを九産大で受けているので、今日の会場が福岡大学だということを意識せず、帰巣本能で九産大に行ってしまったのではなかろうか。 彼はいつごろ、間違いに気付いただろう。 そのときの驚き、不安、 すでに開始1時間。 地下鉄の中、一人で福大に向かう彼の孤独は―。 なんてふうに、心配したが、 集団法の途中で電話をかけにいくことはできず、私自身のフォーカシングに戻る。 子どもの頃、私は、自分の感情を取り扱うことに困難があって、 周りに対して「こうしてほしい」という具体的な願いはあったが、 私が求めるような助けは得られなかった。 教示 <その経験全体を認めることができるかなと、感じてみましょう。 その出来事の全体、全部と一緒に今自分がそこに座っている。自分の中にスペースがあってそこにその問題の経験全体がある、 そういうふうにちょっとイメージしてみましょうか。> 積み上げられた無数の段ボールに白い布がかけてある。 それは昔のもので、今では、段ボールの中身が動き出して私に負担をかけるようなことはない。 ことによると、もう中身は入っていないかもしれない。 荷物はしかし大きく場所を取り、私の中に在り続けている。 イメージの中での私のサイズは段ボールよりはるかに小さく、 何ができるわけでもなく、何をしようともせず、ただ右横で、体操座りしている。 …A君は今、どこに居るのだろう。 教示 <この難しい経験を見ていくと何かしらからだの感じやフェルトセンスが感じられるかもしれません。> そう、子どもだった私は、これらの荷物を一人で持っていることで 人一倍頑固になってしまった。 ずっと私は荷物と共に生き、 段ボールと同じ程度の四角四面さ、 硬さ、融通の利かなさが、 私の心の柱となり、壁となってしまった。 この人生、一生連れ添っていくであろう、四角。 …などとフォーカシングしていく中、 たびたび「A君は今、どこ?」という思考が貫入する。 思えば、―まあ時々実際に驚くようなことも有って―、私はしょっちゅう彼のことを心配しているのだ。 これも何かの縁、 勝手に交差してくる「A君は今、どこ?」と、 私の中の荷物を、 二つ同時に感じてみる。 すると「A君は今、どこ?」が、あっという間に変化する。 “彼がどんなに優しい人であるか、私は知っている”。 教示 <フェルトセンス、もしくは今みなさんの身体がどんなふうに感じられるのかというのを、少し丁寧に描写する時間を取りましょう。 何か一つの言葉、複数の言葉、どんなイメージが、ぴったりくるでしょうか。> その質感は、 ミストのような、転じて弥勒のような、 いやどんな言葉も部分的にしか当てはまらない。 どこまでも入って行けそうな彼の優しさ 信じられないような広さを、 ちゃんと感じてしまうと、泣いてしまうかもしれないから、 私は奥まで行かないようにする。 いつも私は、彼を自分のために使ってしまわないように、 彼の中まで入っていかないよう、気を付けている。 いつも気を付けてきたってことは―、 いつも知っていて、 汀で感じていた、ということだ。 私の中の大きな荷物と、彼の優しさの質感を 二つ並べて感じていると、ある思いが生まれてくる。 荷物を長年置いているせいで、私は決して普通の人のように、 つまり自然に流れるように人とかかわることができないかもしれないけれど、 これがあったから立ち止まり、 彼や、他のいろいろな人のことを 感じることができるのだろう―。 この人生だから、得られているもの。 教示 <もう1,2分したら一旦このプロセスが終わりに向かっていきますけども、 自分の中の感じや自分の身体にありがとうと伝えて、また戻ってくるねと伝えてみましょう。> 説明がつかない、とても良い感じが、 横隔膜のあたりに、円盤状に広がっている。 安定していて、触れていると安心、 いつまでも触れていたいような感じ、 太陽のように、自ら温かさを発している。 このあまりにもはっきりとした感じは何だろう。 教示 <これからちょっと2,3分時間をとって、今のセッションについてメモを取りたい人は今の経験に対して少し書きとめておきましょう> なんだか不思議な感じで、セッションを終えた。 すぐ部屋を出て、A君に電話をかけた。 つながらなかった。 横隔膜のあたりにあった良い感じは、 セッションが終わると、ほどなく消え、 自分の中で再体験することができなかった。 あれは何だったのか。 アンさんが以前、<苦しいことを取り扱うときは、決まって良い感じが出る。苦しいことを取り扱えるだけのエネルギーを与えてくれるような。>と言っていた、そういうものだろうか―。 多少のQ&Aを入れたら、もう昼食時間だった。 休憩のドアが開くと、ほどなく、A君が入ってきた。 「わっ。どうしてたの。」 「すみません、迷いに迷って…。ドアのところに来たらアンさんの教示か何かが聞こえてきたんで…。このセッションに入らないで、昼から出ることにしたんです。」 「えっ………。」 私なら、がめつくドアの外に張り付いて聞き、集団フォーカシングが終わるとすぐに入室しただろう。 彼は、セッション自体を邪魔しないという選択をしたというのか。 「昼から、よろしくお願いします。」 意外にさわやかな顔で、部屋の奥へと入っていった。 ………。 すべてが分かった。 私が感じた彼の圧倒的な優しさは、 「今そのドアの向こうで」彼が実際に私達に対して してくれていたことの質感であり、 あのはっきりと訪れた温かな感じは、 彼の中の「何か」が、自分でも知らないままに、 人と人との垣根を飛び越えて、私に伝えてきてくれたものだろう。 “大丈夫です” (嗚呼、あの“大丈夫です”の中に、今のことだけでなくて、この先将来のことも大丈夫だといういうメッセージが5%ぐらい入っていた気がするのは、単なる私の希望だろうか。) この世にはたくさんの存在が生きていて、 まだ私のような凡人には、そうそう一体感など感じることはできないけれど、 彼が私に感じさせてくれたように、実際、すべての存在は影響し合っているのだろう。 もしそうであれば、私の荷物は、 世界の中に置かれている荷物だと言って差し支えない。 私の器の中では大きく場所を塞いで見えるものも、 世界の中に置けば、 小さい。 その後、ワークショップは、「Larger I(より大きな自分)」のセッションへと入っていった。 アン・ワイザー・コーネル来日ワークショップ福岡2011年 2−(1) |