「名著の条件」白井祐浩(2005)

名著とは
 人類が文字というツールを使うようになって以降、様々な「名著」が生み出されてきた。過去から現在にわたり無数の名著が生み出されており、また、これから先にも無数の名著が生み出されていくことだろう。しかし、ふと考えると、名著というものは一体誰が作っているのだろうか。ある本が名著であるということを、一体誰が決めているのだろうか。いつ、どこで、誰が読んでも素晴らしい本であると評価される、絶対的な「名著」というものは存在するのだろうか。
 しばしば大学の講義において、名著だからということで、「この本は読んでおくように」と文献紹介をされることがある。学生は(筆者もよくやることではあるが)その文献リストをノートに必死に書き写すという光景が見られる。このようにして紹介された文献は、なんとなくある領域を勉強するものにとって「読まなければいけないもの」、「理解しなければならないもの」、「役に立つに違いないもの」として受け取られる。そして、もしその本を理解ができなければ、その学生の理解力の不足、勉強不足として捉えられることがある。そこには、誰にとっても役に立つ「一般的な名著」という信念がある。
 大学の講義に限らず、友人から、「この本は絶対面白いから読んでみて」とか、「この本は絶対役に立つから」と本を薦められたり、逆に、自分が読んで面白かった本を友人に勧めるという経験をしたことがある人も多いのではないだろうか。筆者の経験では、もちろん、面白かったという感想を聞くこともあったが、一方で全然面白くなかった、あるいは、逆に不快感を感じたという感想を聞くこともあった。そのような時、こんな素晴らしい本なのに、どうして…という気持ちを持ったりする。そこには、私にとって素晴らしかった本は誰にとっても素晴らしい本だという「一般的な名著」という信念がある。
 また、このような経験をしたことはないだろうか?ベストセラーとして売り出された本がある。周りの人も「あの本は良かった」、「絶対読むべきだ」と言っている。読んでみると、なんとなく良い本だったのかなと思うけれども、あまり記憶にも残っておらず、そんなに心を動かされた感じも無い。そこには、ベストセラーは誰にとっても感動を与える、素晴らしい本であるという「一般的な名著」という信念がある。
 このように、私たちは世の中には誰に対しても価値があり、意味がある「一般的な名著」と価値の低い、くだらない本があると考え、名著というものには絶対的な価値があり、その本の価値、名著であるための条件は本の側にあると考える。そして、その本を理解できないのは、学の無い私たちが悪いのである。このような考え方は、哲学における「真理」のように、名著の側に絶対的な価値(良い本、面白い本、素晴らしい本、役に立つ本など)があるという前提がある。しかし、本当にそうなのだろうか?
 先ほども書いたように、私たちは名著といわれている本を読んでも今ひとつ自分の中に入ってこない、しっくりこない、何となくそうかなとは思うが心が動かされない、正しいと思うが何か腑に落ちない、役に立つとは思うが実際には行えないというような体験をすることがある。このような場合、「一般的な名著」というものが存在すると考えるよりも、個々人が「個別的な名著」を持っていると考える方がしっくりするのではないだろうか。ある人にとってある本が名著だと感じられるとしても、別の人にとってはそうではない。一般に名著といわれている本であっても、全ての人が名著だと感じるわけではなく、逆に、あまり知られていない本や小説、マンガであっても、人によっては名著となる。本の側に名著としての絶対的な価値があるのではなく、その本が名著となるかどうかは読み手の持っている知識、経験、ニーズなどによって決まる。つまり、読み手のレディネス(準備性)があって初めて、その本は(その人にとっての)名著として感じられるのである。

心理療法におけるレディネス
これは心理療法においても同じことが言える。セラピストがどのような働きかけをしたとしても、クライエントの側にそれを受け入れるための準備がなければ、その心理療法は(直接的な)効果は示されないだろう。例えば、精神分析における解釈などもクライエントに受け入れる準備が無ければ洞察を引き起こすことはできない。心理療法はクライエントのレディネスがあって初めて有効であり、心理療法の(直接的な)効果はクライエントのレディネスによって決まる。これは教育でも同様で、生徒のレディネスにあった教育が重要ということは昔から言われていることだろう。この心理療法におけるレディネスについてもう少し進めて考えてみると、心理療法は数多くあるが、その心理療法がどの程度効果を示すかはどの程度クライエントのレディネスを利用できたかで異なる。各々の心理療法は種々の特徴を持つが、その特徴はクライエントのレディネスの異なる部分に働きかける。あるレディネスを持ったクライエントは精神分析が効果を持ちやすいが、行動療法が効果を示すようなレディネスは(少なくとも現在は)持ち合わせていないかもしれない。もちろん逆の場合もあるだろうし、パーソンセンタードやゲシュタルト療法、森田療法などどのような心理療法でも同様で、クライエントの素質、これまでの経験、知識、ニーズなどによって蓄積されたレディネスによりその効果は異なる。精神分析単一で、行動療法単一で、その他のどんな方法であっても単一で全てのクライエントに効果があると考えることはナンセンスであり、クライエントのレディネスに合った方法を選んでいくことが重要となる。筆者は個々のクライエントにあった心理療法(あるいは機関)を紹介する専門家として臨床心理コーディネーターというものを提案しているが、これは個々のクライエントのレディネスに合った心理療法、あるいは機関を紹介するというものであると考えることもできる。

レディネスとは
ここで少しレディネスとはどういうものかについて、筆者の考えを述べてみよう。レディネスはその人が持っている知識、経験、歴史などを含むものである。筆者の考えるレディネスはそこからニーズ(欲求)や行動、変化(洞察や学習なども含まれる)を創出するものである。また、そうして生み出された行動や変化自体がレディネスとして再び蓄積されていく。本を読むということを例に取ってみよう。これまで蓄積してきた知識や経験をもとに、「この本は素晴らしい本だった」、「この本は名著だった」という体験(本を読んで、ああ、なるほどと思う体験。一種の洞察ともいえるかもしれない)が生じる。また、これまでの知識や体験と照らし合わせることで、その本を理解することができるようになる。そして、そのような体験や理解した知識が、他の本に対する新たな洞察や理解を可能にするためのレディネスとなって再び蓄えられていくと考えられる。

国と名著
 このレディネスの考え方を用いると、国によって名著というものは異なることが分かる。例えば切腹や神風という概念が外国人に理解しにくいように、その国独自の文化背景、文化によるレディネスというものがあると思われる。明らかに文化背景が異なる他国の名著を読んでも、今ひとつピンと来ないことはないだろうか(もちろん、他国の文化についてのレディネスを持っている人はそう感じないだろうが)。また、それぞれの国によって、ある名著に対して注目する点は異なることだろう。ヒトラーの著した「我が闘争」などは、その時代のドイツ国民のレディネスには合っていたが、異なる国では名著とはなりえなかったかもしれない。その国の文化によるレディネスも、ある本が名著であるかどうかを決める一つの要因になりえるのではないだろうか。
 このことは心理療法でも指摘されているように思われる。他国の心理療法をそのまま利用することで様々な弊害が生まれること、輸入した心理療法をその国に合った形に加工して利用することの必要性は臨床心理領域の中でも言われ続けていることだろう。国の文化のレディネスにあった形で心理療法を行うことは、レディネスの考え方から言えば、有益であると言えるだろう。

時間と名著
また、レディネスの考え方からいうと、永遠の名著というものはありえない。科学者の様々な名論文も、それはその時代の科学者にとっての名著にすぎない。後の時代には原著よりももっと分かりやすい解説書が出版され、それが一般大衆に紹介されたり、教科書として取り扱われたりする。すなわち、平易な言葉を用いてそのエッセンスの部分を解説することにより、よりレディネスの少ない対象により広くその理論が紹介されていくことになる(一部、原著にこだわる専門家も見られるが…)。名著はその部分やエッセンスを利用されることで、それぞれの対象や時代のレディネスに合った形に書き換えられたり、読み替えられたりしていくのだろう。同じ名著であっても、その時代や対象によって捉え方はまちまちであり、そうであるとするならば、時代のレディネスに合わせて、名著も変化していくのは当然のことだろう。何となく永遠の名著だと思われながら、その実、現在はほんの一握りの人にしか読まれない名著というものが数多く存在しているが、時代によって人々のレディネスは変化しているのに、どうして永遠の名著などというものがありえるだろうか。
このことはあまり言われていないように思うが、心理療法も同様だろう。精神分析は、行動療法は、人間性中心療法はこれまでも効果があったのだから、これからもずっと効果があり続けるに違いない。そう信じ続けている臨床家は多いように思う。しかし、時代と共に人は変化していくものである。対象が変化しているのに、どうして心理療法が効果を持ち続けると言えるだろうか。精神分析など創られてから既に1世紀近く経過している。フロイトの時代の人々と現代の人々とは大きな変化が見られるのではないだろうか。筆者は心理療法は出始めの時が一番効果があるという話を聞いたことがあるが、これはレディネスの視点から考えれば、出始めは時代のレディネスに沿った形で出てきた心理療法も、時が流れるにつれてレディネスが変化していく人々に対応できなくなったからと考えられるのではないだろうか。過去に生まれてきた心理療法の効果が永遠であると考えるよりは、それぞれの時代のレディネスにあった心理療法を工夫する方が、幾分有益だろう。

レディネスの蓄積
ところで、昔、何気なく読んだ本が、ある体験をきっかけに思い出されることがある。あるいは、昔はたいしたこと無い本だと思っていた本が、ある経験を通して名著として感じられることがある。また、昔はあまり気に留めなかったが、少し経って読み直してみると名著として感じられるときもある。これはどういうことだろうか?
初めに述べたように、名著とは読み手のレディネスによって決まる。レディネスとは様々な知識や経験によって蓄積されてくるもの、あるいは広がってくるものなので、ある本を昔読んだ時と、改めて読んだときでは読み手のレディネスの蓄積が異なる。となれば、昔は気に留めなかった本が時を置いて読んでみると名著として感じられたとしても何の不思議も無いだろう。昔読んだ本自体がレディネスを広げ、ある体験を通して名著として感じられるようになることもあるだろう。それは本自体の価値が変わったのではなく、読み手のレディネスの蓄積が名著を生み出したのである。

心理療法とレディネスの蓄積
レディネスの蓄積の視点で見ると、心理療法を行った直後に効果(直接的な効果)が現れなければならないとは限らない。心理療法で体験したことは、おそらくクライエントがこれまで経験してきた体験とは質の異なる体験としてクライエントの中に蓄積されていく。これは言い換えると、心理療法での体験やそこで考えたこと、感じたことがこれまで持っていなかった新しいレディネスとなって蓄えられていくということである。変化というものがこれまでのレディネスを元に何かのきっかけで生じるものだとすれば、心理療法はクライエントのレディネスの幅を広げることで変化の可能性を増やすことだと考えられる。心理療法は日常とは質の異なる場、体験であり、クライエントに新しいレディネスを提供しやすいので、クライエントも変化を起こしやすくなるのだろう。しかし、心理療法の効果は直接的な変化だけではないのではないだろうか。変化はたまたまクライエントの中のレディネスが変化を引き起こす所まで高まった結果生じるのであり、心理療法の本質は、クライエントに異質な体験を通してレディネスの蓄積を促すことである考えられないだろうか。そう考えれば、たとえ中断になった心理療法も、その体験はクライエントの中で新しいレディネスとなって生きている。直接的な効果がなかったからといってその心理療法が無駄であったとは限らないし、中断になったケースがクライエントにとって無駄な体験であったとは限らない。どのような体験であってもそれはレディネスの蓄積となり、そのレディネスを生かしていくのはクライエントである。心理療法自体は中断となっても、その後の体験がきっかけで、心理療法で蓄積されたレディネスが変化を引き起こす下地の一つとして生かされていくこともあるだろう。このようなレディネスの考えが、「変化しないのはクライエントのせいで、自分のせいではない」とセラピストの自己正当化になってはいけないが、「ケースが中断してしまった。自分は心理療法家として全く役に立たない」と考えるセラピストの精神衛生のためには役に立つ考えかもしれない。自分の行った心理療法について内省しつつも、この心理療法の体験はクライエントにとって決して無駄ではなかったと思うのもいいのではないかと思う。
心理療法が直接的に効果を示すことも重要であるが、心理療法を通してクライエントのレディネスをいかに広げ、変化の可能性を増やしていくかということが心理療法において重要なのだろう。たとえ心理療法自体が変化のきっかけにはならなかったとしても、家族や友人など変化のきっかけは周りにいくらでもあるのである。クライエントのレディネスに沿っており、それを更に広げていく心理療法が、そのクライエントにとって役に立つ心理療法といえるのではないだろうか。

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