お勧めの図書案内
(2002年12月新装)


(堅めの本)


 佐野誠『開発のレギュラシオン−負の軌跡・クリオージョ資本主義』新評論、1998年、3600円

  タイトルが示唆しているように、この本は、レギュラシオン・アプローチを当面の分析道具として援用し、南米アルゼンチンの長期的な衰退化の過程を鮮やかに分析してみせた本です。意外に知らない人が多いのですが、1870年頃の1人当たりGDPの水準でみると、アルゼンチンは、当時のフランス(423ドル:1965年ドル評価)とほとんどかわらない水準(420ドル)に達しており、以後、第一次世界大戦前夜にかけての50年、かなりの高度成長を遂げた国なのです。つまり、この時代までの尺度で評価する限り、日本から遠く離れたこのサッカーの強い国は、決して現在のように、開発途上国ではなかったのです。それが、どうでしょう。両大戦間期以後、アルゼンチンは構造的な経済危機を迎えるようになり、特に、第二次世界大戦以後は衰退の一途を辿り、1980年代以後になると、躍進するアジアNIESとは対照的に、その衰退が決定的なものになるのです。素朴な疑問として浮かぶのは、これは一体なぜかという点ですが、著者は、多様な要因の中でも、特に、アルゼンチンに特有な労使関係のあり方に着目し、先進国で見られたような労使妥協がアルゼンチンでは制度化することができなかった点こそが重要だと指摘しています。そして、様々なコンフリクトを経済合理的に処理できないアルゼンチン型資本主義の特徴を、著者は「クリオージョ資本主義」という気の利いた名称で表現し、戦後期にみられた衰退的なレギュラシオンの構図を提示しています。
 概説書ばかりが闊歩するラテンアメリカ研究の世界で、このような本格的な専門書の登場は貴重なものです。また、理論研究が偏重されがちなレギュラシオン・アプローチの世界においても、本書は、開発途上国研究にどのようにしてその方法論を適用するのかを具体的に提示した点において、まさに画期的な業績だといえるでしょう。価格も内容に比べればそんなに高くはないと思うので、ぜひ、ご購読をお勧めします。(1999年、記)


 高橋亀吉・森垣淑『昭和金融恐慌史』講談社学術文庫、1993年、940円

  現在進行中の平成の金融「恐慌」は、実は、いまから70年ほど前(1927年)に起こった昭和の金融恐慌と、多くの点で似通っています。1980年代のバブル経済に対応するものは、第一次世界大戦による大戦景気と戦後(〜1920年)の熱狂的な投機活動でしたし、、バブル崩壊後に多くの企業・銀行が不良債権を抱えて倒産し、銀行の取り付け騒ぎが生じた点、また、恐慌の前後に関東大震災(1923年)と阪神大震災(1995年)という自然災害が生じた点など、多くの共通点があるのです。もちろん、20世紀の初めと今日とでは、日本経済の体力差や、金融システムの安定装置の有無、国際政治経済環境の違いなど大きな違いがありますが、どちらの恐慌の場合にも、旧態依然とした銀行システムの改革(昭和の場合には、明治時代以来の非近代的な銀行経営の見直し、平成の場合には戦後の護送船団方式による過剰保護の改革)が重要な政策課題となったという面白い共通点があります。
  今日の金融不安を乗り切るための直接の処方箋を本書に求めることは無理ですが、現在の経済問題を歴史的な視点から相対化し、その処方箋や今後の展開を見通す上で、本書が色々示唆に富んでいることは間違いありません。ぜひ、一読をお勧めします。叙述も平易で、論理も明快です。経済学の基礎知識がなくとも、十分読み通せる内容だと思います。昨今の金融不安でこの本はかなり売り上げを伸ばしているのではないでしょうか。
  歴史とは本当に面白いもので、学べば学ぶほど、人間は同じような問題であれこれ悩んでいることに気が付きます。もっとも、「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、2度目は喜劇として」と、ある髭の老人は言いましたが(マルクス『ブリュメール18日』)、現在進行中の金融不安が一刻も早く終息し、喜劇と笑い飛ばせる時代がやってくることを願わずにはいられません。ちなみに、昭和金融恐慌からの回復を可能にしたのは、基本的には満州事変(1931年)に始まる15年戦争であったという点を、頭の隅っこに置いておくといいでしょう。(1998年、記)


 G・M・ホジソン『現代制度派経済学宣言』名古屋大学出版会、1997年、5600円

  20世紀末の今日、経済学は大きな転換点にさしかかっています。ソ連・東欧の崩壊によってマルクス経済学の信頼性が大きく地に落ちただけでなく、他方の主流派経済学・新古典派(日本的にいうと、近代経済学の主流派)にしても、もうずいぶんと前からその「脳死状態」が、多くのまじめな研究者たちによって指摘されてきているのです。
 例えば、私たちの消費行動を例に取ると、ミクロの経済学の教科書では、2財の例が引かれ、1000円なら1000円という予算制約のもとで、各人の効用を最大化するような形で消費の水準を決めるというような説明が載っていますが、こんなことが本当に私たちの消費の場で行われているのでしょうか。いま、私たちが1000円を持ってコンビニで買い物をすると考えれば、たちまちにして気づくのは、財の種類が決して二つではないという点です。コンビニには、ざっと何千種類もの商品が並べてあるので、これらの商品全てを目の前にした合理的な消費者は、何千種類もの効用関数を考え、1000円という予算制約を持った効用最大化の数学式を解くことにより、最適な消費水準を考えているというのです。
  合理的な経済人ならば必ずそうやるはずだと、主流派経済学者は言い張り、実際、そのような複雑な最大化問題に特定の解が存在することは数学的に証明されていると譲らないのですが、大阪市立大学の塩沢由典さん(『市場の秩序学』筑摩書房)が明らかにしたように、このような最大化問題は理論的には解があっても、実際上、スーパーコンピューターを使っても解けないのです。例えば、反復計算が一回1マイクロ秒(10のマイナス6乗秒)で計算できるコンピューターを使って計算すると、財の数が10個の時は0.001秒で計算できるのですが、財が30個の時には17.9分、40の時は12.7日、50になるとなんと35.7年!もかかり、財が何千種類もあるような場合には、事実上、半永久的にその最大化問題は解けないことになるのです。スーパーコンピューターを使っても永遠に解けないような問題を、私たちはコンビニでものの三分で解決し、あれやこれやを買い込んでいるわけですから、私たちの消費行動の原理として教科書に書いてあるような説明は(数式を用いてかっこいいのですが)、どうやらその学問的な根拠が怪しいことになります。
  消費理論だけに限っても、問題はこれだけではありません。例えば、消費者が自分自身の選好の完全な内容を知っていると想定するのはおかしいのではないか、また、消費という行動は、主流派経済学が想定するほど合理的な行為ではなく、私たちの無意識の精神構造と深く結びついた非合理的な衝動を含んではいないか(例えば、抑うつ時の買い物依存症、万引き)、また、私たちの消費選好自体が、広告などの外的な要因によって左右されていて、効用関数の存在という仮説自体に欠陥があるのではないのか、等々、批判的な議論はつきません。
  また、主流派経済学が過度の数理化を押し進め、数学的に精緻な経済モデルをこしらえるために、現実のリアリティーを犠牲にしたような仮定を設け、延々と数式の証明問題に没頭する「数学中毒」の状態に陥っていることは、主流派経済学を学んだ優秀な経済学者がつとに警鐘を鳴らす点ですし、子供を産み育てるという人間の基本的な価値観にかかわる営みをも、「消費財としての子供から得られる効用」と「子供を産むことで犠牲になる効用」との損得勘定だけで決定されるという、木で鼻を括ったような主流派開発経済学の議論なども、人間を針金細工の合理的機械としてしか見ない、主流派経済学的人間把握の典型的な失敗例でしょう。とまれ、主流派経済の理論としての有効性は、マルクス経済学同様に深刻な危機に陥っているといってよいのです。
  本書は、以上のような、主流派経済学の問題点を包括的かつ詳細に論じ、同時に、「制度」の問題に新しい光を当てて代替的な経済理論の構築を目指す、非常に大胆な本です。現在経済学の行き詰まりを感じている人々にとっては、まさに福音書ともいえる書籍です。また、訳が非常に読みやすく、翻訳の鑑といってよいでしょう。翻訳家を目指す人は、この本のような訳を志すべきです。5600円というのがちょっと痛いのですが、これだけの内容ですからこれはよしとしましょう。ぜひ、一読を勧めます。(1998年、記)



(柔らかめの本)

 洋泉社編集部『活字秘宝 この本は怪しい!!! 日本一のモーレツ・ブックガイド』洋泉社MOOK、1997年、952円(研究室常備・貸し出し可)

  最近、「と学会」のトンデモ本シリーズ(シリーズ第1弾は、と学会編『トンデモ本の世界』洋泉社、1995年、1600円)が、続編以後つまらなくなってきて寂しい思いをしていた矢先にこの本と出会い、実に感動。通算、三時間くらいは笑ったでしょうか。まあ、企画としては、と学会のパクリなんですが、SFや超常もの中心だったトンデモ本のアイデアを、「怪しい本」という概念に拡大解釈して、ジャンルを問わず、いろんな分野のトンデモ本を紹介してる点が、新しい点です。と学会の続編(『トンデモ本の逆襲』)続々編(『トンデモなんとか』→タイトル失念)が、正編にあったようなユーモアを失い、トンデモ本への愛情をもった絶妙な紹介をはしょり、やたら〈笑い〉などとト書きして、読者に「さあ笑え」と催促するだけのイージーな編集が目立つのとは対照的に、この本は、まさに、初心に帰る、で、好感が持てます。ライターの質がかなり高い。丹念に、トンデモ本を読み込み、どのように書けば、面白く紹介できるかのツボを心得ている感じ。と学会の続々編などは、批評の対象とする当該本をまったく読まず、と学会の例会で報告したナマ原稿を、そのまま、活字にしちゃうという無茶な編集をしているので、トンデモ本シリーズ自体がトンデモ本となる日は近いのでは、と心配になりますが、本書に限って言えば、実によくできてる、の一言につきます(ただし、ケニー君のページはちょっとやりすぎでしょう。あまり笑えませんでした)。マスコミやライター志望の学生には、必読書。出版会の裏事情や、いい記事の書き方を、ここから大いに学んで下さい。
  それにしても、これだけトンデモ本のジャンルが広がると、研究者の世界にこの波が押し寄せてくるのは確実と思っていたら(実際、ここだけの話ですが、学者の世界こそトンデモな本の宝庫なのです)、先日、天神のリブロで、「とんでも経済本」という類の本を発見しました。ついにきたか!(1998年、記)


 蒲松齢(ほしょうれい)『聊斎志異(りょうさい・しい)』(上・下)、岩波文庫、1997年、770円

  中国の清の時代に作られた有名な怪奇短編。作者の蒲松齢が、各地に伝わる怪異たんを集め、文学的に脚色して作り出した伝奇小説。全編これ、妖怪、幽鬼、狐、仙人、地獄、閻魔様、夜叉など、この世とあの世を自在に行き来する不思議なもののけだらけ。最近、改訳されて、きれいな活字で再版になったので、ぜひ一読してみては。退屈しのぎには一番です。それにしても、この本、登場する幽霊(幽鬼)の多くがお色気むんむんの若い美女で、どれもこの世の殿方を誘惑して「体を交わ」し、しまいには愛ゆえに輪廻して蘇り、この世で再び結ばれるという筋がやたら多いのが面白い。日本の幽霊小説の場合、あの世とこの世との線引きに頑なにこだわり、幽霊をひたすら迷うことなく成仏させることで物語を終わらせるという筋立てが基本ですが、これは両国の文化的背景の違いなのでしょうか?(道教の受容度の差違?)。四谷怪談や、牡丹灯籠のようなドロドロした怨念ものが少なく、幽鬼に思わず同情してしまいたくなるストーリーや、全体的に暗い結末よりも8割方ハッピーエンドで終わる点なども本書の特徴です。それだけ読後感がさわやかなのがいいですね。また、老年近くになってまでも科挙試験(官僚になるための試験。今でいう国家試験I種や司法試験のようなもの)を受け続け、毎年落第の憂き目にあったという、蒲松齢という原作者にも興味がそそられます。登場人物に、試験勉強中の「生員」(学生)が多いのはそのため? お色気ものが多いのも、作者の満たされない願望が反映しているのでしょうか?……。(1998年、記)


戻る
プロゼミナール案内
ゼミナールT案内
ゼミナールU・卒論案内